[ 倫理的経済 ]
 

フランシス・コッポラの映画作品「レインメーカー」から企業が負う「責任」の問題を考える。
有限責任とは何か? それは本当に責任を取れるのか? 必要な情報公開を進めることは出来るのか?
:浅輪剛博

 レインメーカーは雨を降らせられなかった


アメリカ合衆国というのは不思議な国である。世界的に考えても最も野蛮な場所のような気もするし、また、やっぱり先進的である、という気もする。といっても、それが代表する資本主義、国民国家というもの自体がある意味で野蛮さを含んだものなので、野蛮さと先進性は同居するのかもしれない。ハリウッド映画などを見ていてもそういう気がする。フランス映画、あるいはニューヨーク映画でさえ、何か遅れている、という気がすることがある。フランスの有名な映画監督で資本制を批判したような映画があったが、その人の資本主義のつかみ方は、渋滞と広告が町にあふれていることに疲れきった、という程度のものに過ぎなかった。

たとえば、コッポラ監督のちょっと前の作品で、『レインメーカー』という映画がある。それが「映画としてどうか」というような話はつまらないので私はぜんぜん気にしない。私は自分の問題に照らして面白かった。この映画は資本主義の奥底の問題をとらえている。それならばそれでいいのだ。

さて、この映画は、マット・デイモンが扮する新人弁護士が、白血病患者の原告を弁護する、という話である。貧困家庭を狙って補償される当ての無い保険を売りさばいている会社が相手だが、今回もいろいろ難癖をつけて、白血病なのにびた一文保障せず、その結果必要な骨髄移植手術を受けることが出来ず、この患者は死亡する。新人らしく正義感のある弁護士は、これに腹を立て、保険会社お抱えの弁護士に「恥を知れ」と叫ぶ。結局、保険会社の不正が明るみに出て、彼らは勝訴する。保険会社は賠償金5000万ドル以上の支払いを命じられる。

こうやって書くとありきたりの話なのだが、いろんな駆け引きがあって、実に面白いのである。しかし、最後になって私は何か物足りない、というか、不満を感じた。というのは、この多額の賠償金の前に(また、他の不正行為追求が始まり)この保険会社は倒産し、結局賠償金を払う人がいなくなってしまったのだ。それを聞いた患者の母親はそれでも満足そうに「こんな私があんな大会社を倒産に追い込んだ」と満足そうにつぶやく。だがどうして?いったい誰が重大な不正行為の責任を取ってるの、この場合?

たとえば、ある団体が不正行為を行って賠償を請求されたら、責任を取って払うべきなのは、その団体の持ち主だろう。この場合、保険会社の持ち主は社長ではなくて、株を所有している株主である。ところが、株主という存在は有限責任で、株券に費やした金の分の責任のみしか追及されず、この映画の場合のような不正行為があった場合も、法的責任は追及されない。たとえば、株主が牢屋に入れられるということは無い。これが限りが有る、有限責任である。

責任が有限であるから気軽に投資家は金をつぎ込む。だから、株式会社は多額の資金を集めることが出来て、よって、資本主義は大規模な投資、先端技術の導入・開発を進めることが出来、よって発展する。このような利点のために有限責任、という制度がある。

これは当たり前のように現在法律で保障されているのだが、この制度が始まったのは実は19世紀の中ごろぐらいだ。そんな昔からある制度ではないのである。有限責任が最初に法律化されたときに、実はイギリス議会で大論争になった。それまでは、会社というのは大資本家が持ついわゆるオーナー会社であって、その会社の責任はオーナーが持つ、ということだった。

ところが株式にして、多数の人に会社所有を分散させると、それぞれの責任はどうなるのか、という問題が起こる。つまり、あまりにたくさんの人がオーナーであったら、実のところ誰にも責任がなくなる。責任は有限である。このようなことが許されて良いのか。そのような会社は経営が雑になり、不安定になるのではないか、あるいは、平気で不正行為をするのではないか。誰も本当には責任をとらないのだから。こうやって英国議員の多くは憂慮したのである。

これに対し、経済学者のジョン・スチュアート・ミルらが有限責任を弁護した。いや、有限責任会社はきちんと公的に登記され、その財務・経営内容なども公表されるので、そんな心配は無い。公的機関によって保障され、また、監査機関がしっかり整備されれば大丈夫である。つまり、経営内容をしっかり情報公開することによって、有限責任のリスクを避けることが出来ると主張したのである。これによって、有限責任は法的に認められることになった。

もちろん、これは法的に認められただけであって、普通の人間の心情としては、少なくとも私には、この『レインメーカー』という映画の最後に感じた様に、なんとなく認めれないものを感じるのである。大体、情報公開をちゃんとしてあるから、有限責任でも大丈夫だ、といっても、これもこの映画にあったようにあの手この手で会社は経営内容を隠そうとするでは無いか。

映画を見てそんなことを考えていたときに、本屋で奥村宏さんの『エンロンの衝撃――株式会社の危機』なる本を見つけた。彼もまさしくこの問題に疑問を呈し、その改革を呼びかけている。具体的には、労働者が所有する協同組合の形態である。

もし、『レインメーカー』の株主がたとえ有限であっても不正行為の法的責任をも負う、としたらどうだったであろうか。来た保険請求をとりあえず全部却下する、というような不正行為があったら、その違法行為の法的刑罰の何分の一かをでも負担せねばならない。賠償金の一部、刑期の一部、それらを履行する責任があったとしたら。そしたら目くじらを立てて企業の行動を監視するだろう。公的機関、監査機関などよりも、もっと厳しく。このようにしてしか企業の不正行為の停止、情報公開の推進は進まないのではないか。

しかし、もちろん、そんなことをしたら今度は投資家は投資をするのをためらう。 よって、資金が集まらず、大会社は危機を迎えるであろう。まさに「株式会社の危機」である。この状況をどう変えればいいのか、奥村氏の考えは協同組合である。し かも、新しい形の。ただ、私は個人的には単なる労働者協同組合には問題があると思う。消費、流通に切り込むようなもので無いと。この点についてはまた別に考えたい。

『レインメーカー』とはつまり雨を降らす、ということである。マット・デイモンの弁護士はたくさんの賠償金を勝ち取ったので、大雨を降らした、というわけである。しかし、結局雨は降らなかった。もちろん、母親は息子が死んだ後にそのような汚い金は、実は欲しく無かった。正義こそがほしかったのである。そして、有限責任は正義なのか、という大きな疑問を呼び起こした。全く別の雨になったのである。激しい雨が降る。



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