[ 倫理的経済的 ]
 

文:生井 勲 

 ボイコットフラッグはGENERAL BOYCOTTのそよ風を呼ぶ

 ボイコットフラッグに掲載された企業は、まず第一に、ブッシュ政権に献金をしている企業です。その企業製品を購買するのに使ったお金が、ブッシュ政権に流れ込み、それが戦争を準備し、遂行するのに使われています。もしも、これらの企業がこうした活動を取り止めないなら、私たちはもう買いません(=お金を提供しません)という意志を、ボイコットフラッグは表明しています。
 また、第二に、ボイコットフラッグはイラク戦争支持を表明する企業を掲載しています。そうした企業の経営陣は、この戦争が遂行されることによって、「大きな利益」があると考えていることが明らかだからです。私たちは、人々の生命と地球環境とをこれほどまでに蕩尽して獲得される「大きな利益」を共有したいとは考えません。だから、そうした企業が提供する富も購入したいとは考えません。
 ボイコットフラッグに掲載された企業が、その掲載を取り止めて欲しいと考えるなら、ブッシュ政権への献金を取り止めるという態度を表明すること、あるいは、イラク戦争支持を撤回する態度を表明することが必要です。そして、それだけで十分です。ただし、三菱だけは日本を代表する軍需産業として、平和産業への路線転換を世界中に表明しなければなりませんが。

 以上が、ボイコットフラッグに込められた企業側へのメッセージです。が、それは同時に、われわれ消費者に対するメッセージとしては、絶望的なものです。私たちの生活の大部分が、これらの企業製品によって充たされているからです。これらの企業製品なくして、私たちの消費生活は成り立たないのです。私たちの生活は、まさにこれらの企業の植民地と化しています。
 しかし反面、ボイコットは植民地でこそ威力を発揮するものだとも言えます。かつて、アメリカ独立革命はボイコットによって始まっています。インドでもイギリス製品がボイコットされたし、中国では日本製品がボイコットの攻撃に曝されました。植民地においては、生産と消費とが分裂しているのが明瞭だから、その運動は実効的であり得たでしょう。
 しかし、ここに第二の困難があります。それは、私たちが消費者としてばかりではなく労働者としても生きているという事実です。多くの人々が、フラッグに掲載された企業で、あるいはその関連会社で日々仕事に従事しているからです。したがって、かつての植民地と違うのは、私たち先進諸国で生活する者たちは、自分自身の生活基盤を植民地としてこれらの企業に提供しているという点です。ときには、消費者として。また、ときには賃労働者として。

 だから、ボイコットフラッグは、アメリカ企業の製品を攻撃対象としているのではありません。かつて、インドの人々は、少なくとも現在の日本よりは、イギリス企業に対して共通の利害を持っていました。綿花についてはイギリス企業に対して生産者としての位置を占め、布製品については消費者の位置を占めていたからです。だから、イギリス製品をボイコットし、インドの産業とそこで働く労働者たちを守ろうとしたのです。ですが、現在の日本においては、複数のアメリカ企業に対する共通の利害など生じてくるわけもありません。しかも、ブッシュ政権に献金をする企業が(そうして、私たちのお金を戦争遂行のために利用されることに平気でいられる企業が)これほどまで多数を占め、私たちの生活基盤を様々な形態で覆っているならなおさらのことです。
 一般意志など、どれほど討議を尽くしたところで得られるわけもありません。永田町の「民主主義者」は、話し合いによってイラク戦争についての共通の利害(一般意志)が確認されるはずだと主張しているようですが、それは非現実的な、浅はかな考えです。ある人は、マクドナルドで毎日のように昼食をとり、シェル石油のスタンドで給油し、マイクロソフトの系列企業で働いているかも知れない。それは単に個人的な嗜好にだけに基づいたものであるというよりは、その個人の生活基盤を生産と消費の両面から支える個別的な関係性に基礎を置くものであるかも知れない。話し合いによって、そうした個々人の生活の個別性が除去されうるという考え自体が、非現実的な、浅はかな考えなのです。
 もし、イラク戦争についての普遍的な理解があるとしたら、人の生命を理不尽に奪ったり、その結果地球という掛けがえのない財産を蕩尽してはならないということです。
これは確かに抽象的な命題ですが、だからこそ、それだけが個々人の生活の個別性を超えて、もちろん国境も超える普遍性を持ち得ます。とくに話し合いは必要ではありません。というのも、このような普遍的な命題は、人々の生活の個別的な関係性によってのみ生じてくるからです。私たちが、特定の国家の市民として存在するという個別性が、他国との関係によっていわば逆照射されて理解されたときに生じてくるものだからです。話し合いが足りないためにイラク戦争が世論の支持を得ていないなどと宣う「民主主義者」たちは、特定の利害を共通の利害にしたいと考えているだけです。
そうして、特定の個別的利害が別の個別性を制圧することにばかり熱心なのです。
 ボイコットフラッグは、掲載企業の製品のすべてを一切の人びとが廃棄することの不可能性を前提しています。おそらく私たちの誰一人として、掲載企業の製品をすべて買わないで生活することのできる人はいないでしょう。しかし、その一方で、自分たちがそれらの企業製品を購入するのに使ったお金が戦争遂行のために使われること是認したい人もいないでしょう。だから、掲載企業の製品は、ボイコットされるべきなのです。実際にボイコットをしているか否かではなく、「ボイコットされるべき」という考えだけが、普遍性を持ち得るのです。そして、そのとき人は普遍的な消費者(最終消費者)としての位置を占める以外にすべがありません。ただ、買いたくないというだけだからです。しかし、実際には、個々人の生活の個別性がそれを許さないのです。掲載企業に生産と消費の両面から生活基盤を奪われているという個別性が、です。
 この個別性とは、その個人が自由に思い描く思想や嗜好のごとき「個性」ではありません。また、生来平等に分かち与えられているという「主権」のごときものでもない。むしろ、日々社会生活を営んでいくにあたって押し付けられている諸々の制約性のようなものです。だから、共通の利害によって、それを廃棄せよと命ぜられても、人びとはそれを容易には排除できません。もちろん、「主権」のように譲渡することもできない。ボイコットフラッグの掲載企業によって織りなされる植民地に私たちは生きているのですが、それは、その関係項の一つとして、私たちは、消費者として、あるいは生産者として、再生産過程の回転の中で生きていかなければならないということを意味しています。が、同時に、そうであることが、その再生産過程の外部性として、存在することを可能にしてもいるのです。
 というのも、再生産過程で保存される商品の価値(交換価値)とは、商品価値の一面に過ぎないからです。商品交換において、買い手は、最終消費者(普遍的な消費者)として現われるとき、いつもお金(交換価値)を手放して、商品の使用価値を手に入れます。そして、そのとき消費の場面は流通の内部(再生産過程)にあると同時に、その外部へと脱落するのです。商品が交換される際の商品の二つの価値――交換価値と使用価値――とは、根本的に通約不能な隔絶したものです。再生産過程においては、交換価値はつねに保存されています。どんなに綺麗ごとをいっても、賃労働者として多くの人びとは、自身の生活の再生産に必要な給与(交換価値)を得なければならないし、そのためにはそれと少なくとも等しい量の商品(交換価値)を生産し、販売しなければなりません。生産と消費の回転の中で、交換価値はつねに維持されるのです。
だが、この再生産過程において繰り返される商品交換とは、商品の使用価値を求める欲望がなければ持続しないものなのです。商品交換が持続するためには、交換価値を得るために商品を購入するのではなく、消費するために商品の使用価値を購入する最終消費者(普遍的な消費者)がいなければなりません。この過程の中で生きているというまさに同じ事実が、その外部性としてこの回転運動を支えているのです。

 私たちは、この植民地の内部では、一つの関係項に過ぎません。しかし、この植民地は、私たちの欲望(消費)なくしては、存在しないのです。ただし、私たちは、それぞれが個別的な関係項として植民地の内部で生活しているので、その個別性を抹消することはできません。むしろ、個々人各々がその個別的関係性を吟味するところからしか、消費行動を外部性として始めることはできないのです。したがって、GENERAL BOYCOTTにおいては、あらゆる個別性は留保されます。GENERAL BOYCOTTは、個々人の生活の個別的関係性からしか、つまり再生産過程を支える無数の消費点、つまり無数の最終消費者(普遍的な消費者)の消費行動からしか始まりません。だから、トヨタやその系列企業で働いていたりするために、トヨタの製品をボイコットするのが困難な人たちは、マクドナルドのハンバーガーをボイコットすれば良いのです。彼等は、ふつうに働いていてまったく構わない。もちろん、逆にマクドナルドの店員がトヨタの製品をボイコットしたって構わない。再生産過程において関係項として占める位置関係が、個々のボイコット参加者にとっては、絶望的な制約性として働くと同時に、可能性として働くはずなのです。
 その結果、ボイコットフラッグの掲載企業の製品の売り上げが10パーセントでも減少することがあれば、ボイコットは、確実にブッシュ政権の基盤を崩していき、戦争遂行を困難にさせることができます。しかし、これは再生産過程の内部において特定の個別的位置を占めうる個人たちが、特定の企業をボイコットした結果ではありません。つまり、特定の個別的利害だけに基づいた行動の結果ではない。むしろ、これは個々人が、再生産過程に依拠しつつ、その内部から脱落した無数の消費点においてなしたGENERAL BOYCOTTの結果です。
 だから、GENERAL BOYCOTTは何も苦心して参加しなければならないようなものではありません。他人に対して、無理なことはハナから望むべきではない。政府は、共通の利害(一般意志)によって様々な個別的利害を制圧しようとするでしょう。これに対して、GENERAL BOYCOTTは、アソシエーションの原理に基づいて遂行されます。そこでは、あらゆる個別性は留保されるし、また、そうであらざるを得ないのです。

《十九世紀末に、ベルンシュタインやカウツキーの議会主義に対して、ローザ・ルクセンブルクやレーニンが労働者の政治的ストライキgeneral strikeを中心とする戦術を唱えた。アナルコ・サンディカリストも同様である。しかし、それらはいずれも帝国主義戦争を阻止することさえできなかった。だが、「もし」ということが許されるなら、このとき、政治的ゼネストと蜂起のかわりに、労働者が通常どおり働き、且つ、資本制の生産物――どの国のものであれ――を買わないという運動を行なったとすれば、どうだろうか。こうした、いわばgeneral boycottが第二インターナショナルの下に各国で同時に行なわれたなら、資本や国家はなすすべがなかったはずである。
わずか一〇パーセントのボイコットでも資本には致命的なのである。資本や国家は、労働者の武装蜂起やゼネストを抑えこむことはできるが、不買運動を抑えることは決してできない。それはまさに「非暴力的」対抗である。このためには、「犠牲を恐れぬ強固な階級意識」など必要はない。そもそも他人に犠牲を要求するような政治組織はそれ自体(国家的)権力なのだ。柄谷行人『トランスクリティーク』》


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