[ 倫理的経済的 ]
 

--マルクスを読んだことのない人のために、
こんにち、マルクスのどこが問題なのかを、かんがえる--


文:生井 勲 

 商品交換、信用、アソシエーション

<1>
今日、人々は、自分のためばかりではなく他人のために商品を作り出し、そしてこれを売る。次に、それによって得た貨幣で、自分の生活に必要な、または欲望を充足する商品を手に入れる。分業と貨幣経済とが発達した、こんにちの経済において、果てしなく繰り返されるこの連鎖を、それぞれ商品生産と商品交換とマルクスは呼んでいた。しかし、決して勘違いされてはならないのは、マルクスにおいて、商品生産とはすなわち資本主義的生産のことではない、ということだ。この二つの概念の間には、大きな隔絶がある。
 
《今日機能しつつさる資本が経てきた周期的再生産と過去と蓄積の系列はいかに長くとも、この資本はつねに、そのはじめの処女性を保持している。各交換行為--個別的に見られた--において交換の諸法則が守られるかぎり、領有様式は、商品生産に適合する所有権には少しも触れることなく、全的な変革を経験しうる。この同じ権利が有効であることは、生産物が生産者に属して、生産者は等価を等価と交換しつつ自分の労働によってのみ富みうる端緒におけると同様に、社会的富が、たえず増大する程度において、他人の不払い労働を領有しうる人々の所有となる資本主義の時代においても、変わらないのである。   
この結果は、労働力が労働者自身によって、商品として自由に売られるや否や、不可避的となる。しかしまた、そのとき初めて商品生産は一般化されて、典型的な生産形態となる。そのとき以後はじめて、すべての生産物が、はじめから販売のために生産され、そしてすべての生産された富が流通を通過する。またそのときはじめて、商品生産は、その一切の隠されていた力を発揮する。賃金労働の介入が商品 生産を不純にするというのは、商品生産は不純になりたくないならば発展してはならない、というのに等しい。商品生産がその内在的諸法則にしたがって資本主義的生産に生育していくのと同じ程度で、商品生産の所有法則は、資本主義的領有の諸法則に転化するのである(二四)。  

(二四) されば、資本主義的所有に対抗して、--商品生産の永久的所有法則が働くのをそのままにして、資本主義的所有を廃止しようと欲するプルードンのずるさに驚く!

(マルクス『資本論』第1巻第22章「剰余価値の資本への転化」岩波文庫)》
商品生産は、資本主義的生産が拡大深化していない地域においても行なわれうる。そして、この商品生産にこそ資本主義的生産が胚胎する諸法則が存在すると、マルクスは言う。  

果てしない連鎖を構成する個々の商品交換において、買い手は、その商品を貨幣形態に変える。が、このとき、買い手は先の商品に内在していた価値(交換価値)と等価の貨幣を得ていたのである。反対に、売り手は、その商品の有用性に基づいた固有の価値(使用価値)を手に入れている。貨幣に内在する交換価値を代償として。ハサミを購入する買い手は、そのハサミという有用性に基づいた使用価値(使うことによって実現される価値)を手に入れ、売り手はハサミの交換価値(交換される際の共通項としての価値)を手に入れる。買い手は、使用価値を獲得するためにのみ交換するので、どのようにそれを使っても構わない権利も手に入れたと看做されうる。たとえば、それは、彼がそれでダイコンを切ろうとしても誰も文句は言えない、ということだ。反対に、売り手はハサミという商品の交換価値を貨幣形態として獲得することにだけ専心していたのであり、したがってその貨幣は彼の所有物である。商品生産に内在する所有法則とは、簡単に言えばこのような事態のことであり、これは資本主義的生産の行なわれない地域であっても、商品生産が広がる限りで認知されていくだろうとかんがえられる。
 
この所有法則と全く同じ原則に、資本主義的生産の領有法則も基づく。資本の運動が追求しつづける剰余価値が基づくのは、商品価値の二重性--交換価値と使用価値--であり、この二重性が労働力にも展開されたとき、搾取--資本主義的領有--が実現する、とマルクスはかんがえている。商品生産は、労働力商品を見つけだすという歴史的段階において、必然的に資本主義的生産へと発展するということだ。
 
売り手は商品の使用価値を手放して交換価値を手に入れるので、その商品の使用価値は新たな所有者である買い手の自由に任される。それに対し、売り手が考慮するのは交換価値の大きさだけなので、その商品の再生産過程全般において、交換価値の大きさは保存される。つまり、原料や労賃など、それを生産するための手段の総価値は、完成された商品の価値としても保存され、そしてそれが売却された際には貨幣形態として実現されなければならない、ということだ。したがって、資本は、労働力商品の買い手として現われるときは、労働力商品の交換価値を保存しつつ(労働力商品の再生産費用を労賃として支払い)、その使用価値を自由に利用する所有権を獲得する。資本家は、労働力商品の再生産過程が維持されるべくその費用(労賃)を支払わなければならないが、それをどのように利用し、商品の生産に従事させるかは自由だし、それによって産み出された商品の所有権も資本家に属することになる。もちろん、そのためには、労働力商品ばかりではなく、原料や施設など生産手段もまた、すべて資本家の所有である、ということが必要なのだが。これが、商品生産が資本主義的生産に発展していく、歴史的段階である。
 
かつて、佐渡島を流れる川で、きらきら光る砂金を住民たちが手のひらに載せてみることは、決して難しいことではなかった。その砂金が西洋人との間で取引されると--商品交換されると--、やがてそれは商品として生産されることになり、さらに、江戸幕府が労働者を大量注入して金山を運営するようになると、やがて砂金は川には流れなくなっていった。エチオピア高原に生っていたコーヒー豆も、それが商品として交換されると(商品として生産されると)、同じ原則に従って、やがて西洋の資本が大量投下され、ついにはプランテーションと化して、現地の--そしてそればかりではなく、種としてコーヒー豆が運ばれた他の様々な地域の--生活環境と自然環境とを完全に破壊した。資本主義的生産が支配的となる前の段階の生産様式が、必ずしも野蛮でなかったというのではない。だが、世界市場においてその生産物が商品として交換されることになったことを契機に発達した資本主義的生産は、その従来の生産様式の上に--場合によっては単なる商品生産の上に--さらなる野蛮を、人間と自然とからの略奪を徹底した。
《剰余労働にたいする無制限の欲望は、生産そのものの性格からは生じない、ということが明らかである。‥‥だが、生産がまだ奴隷労働、徭役労働等々という比較的低い形態で行なわれている諸民族が、資本主義的生産によって支配されている世界市場に引き入れられて、世界市場が、彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事であるまでに発達させるやいなや、奴隷制、農奴制等々の野蛮な残虐の上に、過度労働の文明化された残虐が、接穂される。(『資本論』第1巻第8章)》
商品として生産され、交換されるところは、どこでにも資本主義的生産の萌芽がある。一定の歴史的段階にさえ到達すれば、それが資本主義的生産に発展することは、必然である。冒頭の引用箇所でマルクスが言いたかったことは、こうだ。  だから、所有の形態を変更すれば、資本主義的生産を食い止められる、と考えることは過っている。かつてのマルクス主義者たちがしようとしたように、私的所有を国家的所有へと変更しようとしても、そもそも所有法則は商品生産に内在する法則(商品交換の法則)に基づいているものなのだ。
《各交換行為--個別的に見られた--において交換の諸法則が守られるかぎり、領有様式は、商品生産に適合する所有権には少しも触れることなく、全的な変革を経験しうる。(『資本論』第1巻第22章:傍点筆者)》
もちろん、商品交換の法則を前提するとしても、資本主義的生産が拡大していくことは搾取によっているのだから--労働力商品の二重の価値に基づいた--、その二重性を廃棄することは、資本主義的生産を廃棄することにつながる。
《貨幣すなわち対象化された労働と活きた労働との直接の交換は、‥‥まさに賃労働の上に立つ資本主義的生産そのものを廃止するであろう。(『資本論』第1巻第17章:傍点筆者)》
プルードンやオウエンが試みた労働証券とは、そうした試みである。つまり、労働者は、各自が提供した労働量(労働時間)と等価な--等しい労働時間を費やした--商品を購入できる証券を手に入れるものとする、という具合のものだ。
 
だが、この試みは幻想だ、とマルクスは断定する。というのも、商品交換に何の変更も加えられていないからだ、と。そもそも労働は、それ自体で価値であるのではない。商品として--すなわち商品価値の二重性を包含したものとして--、交換における実体として価値なのだ。ここで、実体とは二重性を包含した媒介項ということだ。あらゆる商品交換において、買い手は商品の使用価値を求め、売り手はその交換価値の貨幣形態を求めるという二重性こそが、いわば商品の価値性なのであり、労働はそうした商品と看做されるからこそ、交換され、価値となる。
 
実際、労働証券なる新通貨は、商品交換においては、つうじょうの貨幣に回収されてしまった。具体的には、この新通貨によって支払われた額との差額が、つうじょうの貨幣によって支払われたのである。商品交換の諸法則が支配するところでは、交換されるのは二重性としての価値(実体)であり、労働は商品としてのみ交換されるしかなかったのだ。そして、そうしたところでは、搾取も--資本主義的生産の拡大深化も--、止むことはない。
 
したがって、資本主義的生産様式の支配する歴史的段階を克服する試みは、商品生産とその交換をも組み換えていく試みを伴わなければならない。しかしもちろん、それは分業と貨幣経済とが発達した、こんにちの経済に基づいてのみ、遂行されなければならないのではあるが。

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