[ 倫理的経済的 ]
 

流通業のありとあらゆる財産は社会的なものである・・・・『資本論』第3巻よりこのインスピレーションを得た筆者は、ついにリクエストメイド(システム)の基盤を手中にした。個体的所有の実現をめざして、プロジェクト発足は目前!

文:生井 勲 

 流通業とその社会的所有

 日本ではバブルの崩壊が喧伝されるようになって久しいですが、フランスでは、1880年代に、パナマ疑獄事件という金融スキャンダルがありました。このスキャンダルは、中南米の地峡地帯に大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設のために、パナマ運河開鑿会社が設立されたことからはじまります。指導者は、かつてスエズ運河開通に功のあったレセップスでした。
 ところが、パナマ運河工事は難航を極め、パナマ運河開鑿会社はほとんど工事を進めることができませんでした。にもかかわらず、80年から88年までの八年間に、この会社は十三億フランを超える社債を発行して、実業家たちから多額の金を巻き上げることに成功しました。この間に、パナマ運河開鑿会社は事実上倒産していたとすら言われています。何度も繰り返される社債発行をフランス議会が認可していたという事実が、大きな信用を作り出していたことは想像に難くありません。そして、言う迄もないことですが、この荒唐無稽と言っても良い起債が認可されるために、フランス議会への執拗な贈賄工作が行なわれ、その結果、多くの議員たちがこの疑獄に巻き込まれました。
 エンゲルスが『資本論』第3巻の出版を準備したのは、ちょうどこの頃のことです。第3巻第27章「資本主義的生産における信用の役割」にも、マルクスが書いた信用制度についての論述に、エンゲルスが短いコメントを付けて、この疑獄事件について言及しています。この箇所で、マルクスは、とくに卸売商人たちの投機的な取引を強く戒めています。
 しかし、どうしてマルクスはとくに卸売商人に対して怒りをあらわにしたのでしょうか。もしも、パナマ疑獄事件のような金融スキャンダルについて考えているのなら、何よりも悪いのは、詐欺まがいの社債発行を続けた会社経営者であり、そしてその起債の認可を、賄賂をもらいながら続けていた議員たちではなかったでしょうか。もちろん、マルクスがそのような詐欺を許容したというわけではないでしょう。しかし、マルクスがとくに卸売商人たちを強く戒めたのには、彼の資本主義社会に対する--そして、それを改善した社会を作っていくプランについての--的確な認識があったためだと思われます。
 今日の資本主義社会においては、分業が極端に発達し、生産者がつくった製品は容易に適当な消費者を見つけることができません。それぞれの地域に分散して生活している消費者の事情を熟知した地元仲買業者が、その地域に相応しい量や質の商品を購入し、そしてその仲買業者の手に渡るまでに、また別の仲買業者の手を通過しなければならないことも珍しくありません。このように、分業の発達した資本主義社会においては、ほとんどの生産物が卸売業者を通過するのです。したがって、卸売業者の手許にある商品は、実質的には社会的生産物の総体であり、そしてその財産は社会的所有とみなされるべきだ、とマルクスは主張します。ここで、社会的所有とは個々人の財産の社会的総体という意味であり、マルクスは、生産者の手を離れ消費者を見つけられないでいる生産物総体を--その意味で、それは誰の所有物でもない--を、個々人の財産の社会的総体とみなすべきだ、と言っていたことになります。
 もちろん、それは生産物に限りません。流通業のありとあらゆる財産を、マルクスは社会的なものであると考えています。というのも、流通業とは、マルクスの経済体系においては、一切価値を産み出さない事業分野であり、したがって、それが産み出したかに見える価値--利潤とは、その意味で本来誰の所有でもないからです。
 いずれにせよ、こうした卸売業なり流通業なりの重要性は、今日の社会においても変わりません。発達したコンピューター技術によって、産地の生産者と消費者との間で直接的な取引がインターネットを介して行なわれてはいますが、この事実が今日の資本主義社会と今後の変革した社会において、流通業の重要性を覆すものではありません。というのも、生産者と消費者との直接取引では、消費者の必要とする商品についての情報が総体的に捉えられることが困難になるので、生産者がどのような商品を開発していったら良いのか判断することが難しくなってしまうからです。生産者と消費者との直接取引では、個別の消費者の情報が生産者に伝わるだけで、消費者総体の情報が伝わりません。その結果、生産者はすでに取引のある消費者との閉鎖的な取引を続けていくことはできますが、消費者の要望にあった新たな事業展開を試みていくことが困難になってしまうのです。

 信用は、個々の資本家または資本家と見なされる者に、他人の資本および他人の所有にたいする、したがって他人の労働にたいする、一定の限界内で絶対的な支配力を与える。自己の資本ではなく社会的な資本にたいする支配力は、彼に、社会的な労働にたいする支配力を与える。人が現実に、または、公衆の意見において、所有する資本そのものは、もはや信用という上部建築の基礎となるのみである。とくにこのことは、社会的生産物の大部分がその手を通過する卸売商業にあてはまる。一切の尺度は、資本主義的生産様式の内部ではなお多かれ少なかれ是認される一切の弁明理由は、ここでは消失する。投機する卸売商人の賭するものは、社会的所有であって、彼の所有ではない。(『資本論』第3巻第27章「資本主義的生産における信用の役割」岩波文庫)

 ここで分るように、マルクスは、卸売業(流通業)の社会的所有を真に実現するために--そうみなすべきだ、とたんに主張するだけではなく--、資本主義社会が作り出した信用制度を用いるべきだ、と考えていました。実際、この引用箇所の直前には、マルクスが、株式会社制度を資本主義社会が段階的に克服されていくのに必須の制度であると捉えた、とても著名な箇所があり、またこの箇所の直後には協同組合について言及している箇所があります。そこで、この箇所は、この株式会社制度や協同組合についてのマルクスの捉え方との関係で考えておく必要があります。
 マルクスが、株式会社制度を高く評価したのは、その制度が、産み出された利潤のすべてを、労働者にでもなく経営者にでもなく、そこで働く人々とは無関係の多数者--つまり株主--に分配することを可能にしたからです。そこで働くものは、自分自身のためにではなく、他人のためだけに、--つまり社会的多数者のためだけに働くように見えます。そして、それを可能にしたのが、株式によって会社の財産を個々人が分散的に所有するという信用制度なのです。その所有権によって、株主たちは実質的な会社の運営とは全く無関係に、配当金を得ることができるのです。 
 社会的所有という理念に先鞭を付けたという意味で、マルクスは株式会社制度を高く評価します。それは、資本主義社会における少数者の私的所有に対抗して、連合した生産者たちが真の個々人の所有を再建し、彼らが主体的かつ社会的に活動していくための通過点だ、と。だが、もちろん問題点も見逃してはいません。
 まず、問題点の第一は、理念としてはともかく、現実には株主とはやはり少数者である、ということです。そして、第二には、株式会社では労働者たちは他人のために働くだけで、自分のために働くことができなくなってしまう、という点です。
 そこで、マルクスは、第二の問題点を解決するために、協同組合工場を紹介しています。ここでは、労働者たちが自分たちで出資して工場を所有しているために、労働者たちは自分自身のために働くことできる、と。しかし、ここで第一の問題点がもう一度蘇ってきます。工場で働く労働者たちは、どう考えても少数者であるほかないからです。したがって、マルクスも、当初の段階では、利潤追求という資本主義社会の根本的な問題がまるで解決しない、と指摘することを忘れていません。
 それでは、当初の段階はそうであるほかなくとも、マルクスはどうなったら理想の状態で、それが克服される、と言いたいのでしょうか。ですが、それは、株式会社制度について触れた箇所に書いてあったはずです。連合した生産者たちの真の個々人的所有を再建し、彼らが主体的かつ社会的に活動していくことだ、と。
 こう考えてくると、マルクスが何を最重要課題としていたのかが分かってきます。マルクスは、少数の参加する単一の協同組合工場では不十分だと考えていたのです。彼らは連合した生産者でなければなりません。複数の企業、複数の商店、複数の工場のアソシエーション--連合生産様式--こそが、利潤追求という資本主義のもたらす問題点を克服するのであり、それは単一の株式会社でも協同組合工場でもありません。『共産党宣言』において、マルクスは次のように言っていたことが思い出されます。アソシエーションにおいては、各個人の自由な発展が、すべての人々の自由な発展のための条件である、と。ただ、アソシエーションを形成するのに不可欠な社会的所有の可能性をかい間見させてくれるのが、株式会社制度を始めとした信用制度であり、その信用制度はアソシエーションの形成に大きな役割を担うはずだ、と言っているのです。
 とはいえ、現実には、株式会社制度のもたらす社会的所有とは、ちっぽけなものに過ぎません。社会的生産物の総体が通過する流通業を、社会的所有とすることを目的にするならば、極端に不十分な制度です。流通業の社会的所有を実現しうるか否かが、その信用制度がアソシエーションの実現に主要な役割を果たすものであるか否かを判定する基準になります。というのも、資本主義社会においては、もっとも巨大な業界である流通業全体の財産総体が、社会的所有--個々人の所有を基礎とした--であるとみなされたとき、連合した生産者たち--、つまりアソシエーションが実現するからです。というのも、どんな生産者もここに参加することなく活動を続けていくことが困難だからです。その理由はすでに述べてあります。流通業がなければ、生産者は消費者総体の情報を手に入れることが難しいからです。その情報が、生産者を自分のためばかりでなく他人のために--消費者のために--働くことを可能にします。そして、消費者の要望する商品情報の多様性が、今度は逆に、生産者が他人のためばかりではなく、自分の喜びのために働いていく可能性を作り出します。
 消費者の要望する商品情報の多様性は、他人のためばかりではなく、自分のために生産者が働くアソシエーションを産み出していく、母体となります。それは流通業が、消費者総体による社会的所有を実現しているためです。そこでは、消費者は自分の必要とするもの、欲望するものを自由に主張することができます。流通業は彼らの所有だからです。そして、流通業が産み出したかに見える利潤は、すべての消費者に--もちろん、そこにはそのアソシエーションで消費生活を送る生産者自身も含まれます--分配されます。
 マルクスが、とくに流通業の社会的所有を強く訴えたのは、このような意味があったためであるように思えます。株式会社制度はまだそれには不十分でした。しかし、それとは別にも、大きな敵があったのです。マルクスが、こうしたアソシエーションが広がっていくには、株式会社制度をはじめとした信用制度が大きな役に立つだろう、と言っていたことは確認しました。が、敵とは、その信用制度が、そもそも同時に病んでいるという点です。
 パナマ疑獄事件に限らず、金融スキャンダル、信用危機は、資本主義社会の長い歴史において後を絶ちません。そして、かのアソシエーションが信用制度を基礎として形作られるものだというのなら、信用制度の病は、確実にそれを崩壊に導くはずなのです。
 マルクスは『資本論』第3巻で、一貫してこのような信用制度についての洞察を示しています。そして、その洞察を欠いて病に囚われたサン・シモン主義者--レセップスもその一人--を手厳しく批判しています。サン・シモン主義者たちは、ルイ・ボナパルトとの協力関係からも分るように国家主義者ですらありましたが、一方マルクスは、信用制度の病の深さを、国債制度において見ていたことも忘れてはなりません。というのも、国家の認可を受けたとき、資本主義社会の産み出した信用制度は、その病的な特徴をあらわにするからです。

 国債という資本の蓄積は、すでに示されたように、租税額についての一定額を先取りする権利を与えられた国家の債権者という一階級の増大以外の何ものをも意味しない。債務の蓄積さえもが、資本の蓄積として現われうるというこれらの事実において、信用制度のもとに生ずる歪曲の完成が示される。(マルクス『資本論』第3巻第30章「貨幣資本と現実資本T」岩波文庫)

 アソシエーションを形成していくこととは、資本主義社会において形作られてきた信用制度をもってしか行なわれません。が、同時に、それはこの病の治療という側面を持っていなければならなかったのです。



ご意見・ご感想はこちら
人気投票 感想BOX



[ HOME ]