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[ 倫理的経済的 ]
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生井さんの「地方経済とグローバライゼーションと」を推す |
文:浅輪剛博o |
地方は、第三世界は、どのように発展したらいいのか。こういう問題がある。一方で、外部の資本を呼び込んで大開発をする、という考えがある。たとえば、コンピナート、リゾートとか(のバブリーな企画)。しかし、多くの場合、それは結局利益のほとんどは本社のある外部に流れてしまうし、わずかな雇用を生み出すかもしれないが、既存の地場産業と結びつかず、また公害を垂れ流し、地域のためにならない。他方で、そのような開発方式に反対して、地域主義といって(たとえば玉野井芳郎、鶴見和子)、地域独自の伝統、自然、能力だけを使って自主的に発展すべきだ、という話がある。しかし、それでは先進のものとはなれず、いつまでも停滞したままになる。
そのような不毛な二律背反の議論を続けるよりも、答えは二つの道の中間にある、と考えたらどうだろうか。 たとえば、最近第三世界ショップというようなものが増えて、民芸品が売られていたりするが、それは日本の民芸品より質が低かったりする。しかし、同時にフェアトレードとして現地に経営の仕方のノウハウを伝えることによって、自主的に発展の道を進む可能性がある。 たとえば日本の公害研究の先駆者である宮本憲一という人は、古くから公害を出さない経済発展方式ということで、内発的発展、といったことを主張してきた。それは特に地域内の経済循環を増やし多角的な産業を作ることで、経済状況の変化にも自主的に対応できるようなものを作る、ということで単純な地域主義と比べて、卓見であるが、現実の可能性としてそれでは不十分である場合もある。 中村剛治郎は、そういう疑問を挙げる。地域の自生的なものだけでは、本当に発展できないだろう、限界がある。逆に中央からの外来的な開発、これを受け入れながら、しかし、「主体的に」受け入れながら、漸進的に地域内発展に続けていく、ということが、もっと可能性がある方法だろう、ということを主張している。
そのような視点は確保されていた。だが、具体的にどういう形で外来型開発から、内発的に変化していくのか、その条件は、ということは実際のところ、数多くの経験、実態調査、から学ぶしかないだろう。 たとえば、中村氏が以前から研究していたのが、新潟県石打である。ここには有名なスキー場があるが、外来のリフト会社を受け入れながらあくまで経営権を地元の観光協会が確保する、という形で、地域の発展に役立てている。 また、もっと大きな規模で言うと、東アジア、東南アジア、と至る経済地域の発展がある。たとえば、韓国、台湾、から、タイ、マレーシア、などにおける。もちろん、そこでは公害問題などが残っていて完全なモデルケースとしてあげることはできないが、たとえば、ウォーラーステインが構造論的に、分工場地帯とされた地域は発展できない、としていた理論に疑念を感じさせるものである。それらの地域では、確かに、まず、世界資本が低賃金労働を求めて分工場をたくさん作っていた、ということがあった。しかし、そのような単なる低賃金労働市場から、それらの国は、そこから技術を学び、自分たちの資本で工場を作り出していった。 同じような構造にあったラテンアメリカ、などでは同様の発展が見られず、その点でも興味あるところである。もちろん、ラテンアメリカと東アジアではアメリカの世界戦略における違いがあり、そのようなことも考慮に入れねばならないが。 そのような点で、フランチャイズ・チェーン、コンビニエンス・ストアなどの実態を観察し、新しい可能性を提案する生井氏の論文を興味深く読んだ。 |
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